2019年01月

セミナーでワークをやっていたときのこと。

自分の会社での課題について、シェアし合ってコメントしたりフィードバックしたりしていて。

そのとき、
なにかつっこまれたわけでもなく、いろいろ聞かれたわけでもなく、
書き出したり、話したり、というのと
話して聞いてくれるから、もっと説明しようとしているうちに、
おや?とふと気づいたことがある。

課題、これだけでないなぁ、ということ。
自分にも課題あるぞ、ということ。
その状態で解決しようと考えていてもできるわけないじゃん。


いまさら?な気づきがあったのがおもしろかった。

いつも上司や研修仲間などと話しているような内容なのに。
話してる内容、特にいつもと違うわけでもないのに。

IMG_0026

「いつもとは違う人」に話すとき
「はじめて話す人」に話すとき(その話題がはじめて、も含む)

前提や経緯など共有してなかったり、共有度が違ったりするから
同じような話をしていても、話し方は変わってくる。

だから、自分で話しているだけでも、新しい見方ができるようになる。


反応が違えば、話す内容も少しずつ変わってくる。

だから、思い出すことなども違ってきて広がったりする。



それは話してみるからこそわかることで
だからこそ、話す、というのは大事だなぁと思ったのでした。


考えていること、悩んでいること、まず話をするのはおすすめ!!


デザイン、ということばが好きで、よく使います。

見映えを整える、よくデザインと言われるものだけでなくて
かたちづくること、組み立てること、つくっていくようなことすべてが、デザインだと思っている。

かたちづくる、組み立てる、つくっていくというのも、実際に見える形があるものだけでなくて
整えたり計画したり調整したりするような、見えないようで存在する、さまざまなものについて。
考えてなにかすることすべてについてかもしれない。


なので、
空間も状態も時間の使い方とかも「デザインする」で
くらしもビジネスも「デザインする」だし
自分のことも「デザインする」だと思う。


というのを、
「デザイン」ということばでうまく伝えられなくて
ほかのことばでもうまく置き換えられなくて。

だけど、昨日「自分の人生をデザインする」と描いていて
そういえば、英語を訳したら「設計」なんだよなぁ、と思って
「設計書をつくる」のは、伝えたい「デザインする」な感じでしっくりくるかも、と思った。
(訳語だから当たり前なのだけど)


設計書をつくるのに、あれこれ考えてつくれるように組み立てるイメージ。
どんなものをつくるか、どんな方法でどんな風につくるか?
要件決めて、どうしたら要件満たせるか考えて、必要な要素や条件や手段考える。
で、決めたようにつくったり実行したりする。

というのを、すべてのことで、ほんのささいなことでも、やっているのだと思うのです。
意識的にだけでなく、無意識にも含めて。
こうしたい、こうすべき!→必要なのはこれ!→やる!ってやってるはず。
それが、すべてのことをデザインしている、のイメージ。

IMG_0001


人生をデザインする(というのは、自分のことをデザインするのと同義だと思うのだけど)、って
人生(=キャリア)→道のイメージで(キャリア=轍、だし)
その道の設計書をつくって、実装していくイメージで、
各パーツの実装や実行の手順書が「自分レシピ」で、
つくるためのツール(=自分)の使い方が「取説」、みたいな。


自分の中でイメージできてすっきり。
(それが合ってるかどうかはどうでもよく、自分のイメージとしてまとまればよい)

で、設計書の部分がやっぱ好きだなぁと思う。
デザイン、のとこ。
(といっても、実際は、自分レシピも取説も、成果物としてのレシピや取説だけでなく、つくる過程に意味があって、
  それは設計しているところ、だと思うけども。
  だから好きなのだとも思う。)



と、どうでもいい話だけど
自分の中での「デザインする」の言語化イメージ化ができた気がして
嬉しかったので記録記事、でした。

娘は服とかアクセサリーとかが小さい頃から好きで
いつも、私の服やアクセサリーは狙われていて。
今は服やアクセサリー整理してると、たいてい娘の元へ行きます。

小学生の頃はきれいな服いいなーというくらいでそこまででもなかったのだけど
中学生になってからは、あれこれ服選んで合わせてみたりが好きで
服買ったり譲られたりすると、すぐファッションショー状態だし
近所に買い物行くだけでも誰に合うでもないのに好きな服選んでいくし
ほしい服のためにメルカリがんばってみたりする。


なので、そういう方向の勉強したりするのかな?と思ってたんですよね。
(食べるのも好きだけど、自己流で適当である程度満足してそうだから、学ぶほどではないかなと)


だから、高校どうするか考えているときに
服飾系行けるようなところ行かないの?と聞いてみたこともある。


そしたら、答えは
「服は好きだけどさ、ゆうき雑だから、つくるのとか無理!
  丁寧にやるとか向いてないから!」

売る側はどうなのさ、と思ったら
「バイトするなら、服とか厳しそうだし
   どうせなら、ミスドとかでなくてご飯系がいい!松屋とか!
   まかないあるところがいいなー」

で、高校の見学行ってきたときも
「あのさ、高校行く途中、おいしそうな商店街あった!
   その高校行ったら、買い物してきていい?
   ママの好きなものも買うからさー」


思ってたより、服<食べもの、でした。それはそれで娘らしいのだけど。


というか、単純に自分の望むこと好きなことにまっすぐだよね。
これがしたい、これが好き、これは苦手、がはっきりしてて、それを満たそうとする。

今はまだ短期的な「望むこと」なので
長期的に考えた上での今の望みは?だと違うのだろうし、それはまだわからないだろうけど。

IMG_9973


親や先生やお友達が〜、とか、偏差値やその先の進路などから〜、とか
まわりの反応や条件などから選んだりする子も多いだろう(というかほとんどそうでない?)と思うし
大人だってそういう選び方する人が多いと思う。

そんな中で、自分の選ぶ基準がはっきりしている、まわりは関係なく自分の基準で選ぼうとする、というのはすごいなと思うのです。
その選択がどうあれ、自分で選ぶっていうのが大事だから。


自分で選ぶのが苦手な方は、まず自分が何が好き?何が大事?から考えてみるといいですよ♡


今中3の娘、高校受験。

あまりにも勉強しない子が、やっと秋頃、
ちょっとさすがに勉強するわ!
と言っていたのに、
結局その後もあまりなにもしている様子がなく。
ほんとに受験するの?と思ってしまうほど。


親としての希望は
「あなたは自分がやりたいと思わないとやらないんだから、自分が絶対行きたいと思うところにしなさい」

あと、制限として
・私立に行きたいなら、その学校に行きたい理由を説明すること(とりあえず入れるところでなんでもいいから私立、はなし)。
・高校行かないなら働くこと(家で寝てるのはなし)。お金も多少は家にいれること。



私はほんとに、
行きたいところないなら1年ゆっくり考えてもいいと思ってるし
行きたいところに今からでは勉強間に合わないなら、1年かけて勉強したらいいと思ってるし
高校行かなくて、行きたくなったら大検受けて大学行くのでも
留学目指してがんばってみるのでも
なんでもいいと思っている。

のだけど、
年末前にスイッチはいってやっと高校決めはじめた。
(高校で部活やったりはしたいみたい。バイトしたいけど、バイト代家にいれるのもいやみたい。)


で、我が子ながらすごいなぁと思ったのが、その決め方。

「ゆうきさー、高校入っても、毎日起きて行ける気がしないじゃん?」
「でもさ、バイトなら、ちゃんと行くと思うんだよね」
「だからさー、バイトいって、そのあと高校いけばよくない?」
「だから、定時制がいいかと思って!試験も簡単だし!」


私は、行きたくなるようなとこに行けばちゃんと通うかな、と思ってたけど
娘は、行きたくなくても行ける状態にすればいい、というように
「行けるところ」を考えてきた。

自分のことよくわかってるな、と。
それを踏まえてよく考えてるなぁ、と。

IMG_9972


定時制でも通信でもなんでもいいよー、と言いつつ
ほんとにそう決めると、ほんとにいい?と聞きたくなりそうだったけど
とりあえず今そう思うならそれでいいかな、と。
(定時制って部活あるんだっけ?とかは思わなくもないけども)

ぎりぎりまでどうするかわからないし
試験簡単だ!と思うからかまたあまり勉強してなくて受かるかもわからない。


けど、なんにせよ、自分のこと自分で考えて決めれるなら大丈夫だろう。

娘の考え方がいいというわけでもなく(よくないわけでもない)誰にでも勧めたりはしないけど
自分に合うやり方を知っている、ということは大事だなと思うのです。

だから、自分で自分に合うやり方考えて決めた娘が、すごいなと思ったのでした。



昨日初詣に行ってきたのですが
ちょっと並んでいたときに、後ろの親子の方の会話が聞こえてきたのですね。

声やお母さんの様子から、小学校低学年くらいの女の子かな?
厄年が書いてある看板見て、あれなぁに?と聞いてたり。

ほほえましく聞いていたらこんな会話があって
「お願いごと、何にするの?」
「えーとね… 長生きしますように、ってお願いする!」
「え!長生きなんて、子供がお願いするものじゃないよ!
   お年寄りがお願いすればいいのよ!
   別のお願い考えたら?」
   
なんかおもしろいなぁ、と思ったのでした。

IMG_9971


お願いごとといえば「長生きしたい」のイメージなのかな?
なんでそう思うようになったんだろう?

長生きをお願いするのはお年寄りのイメージ?
なんで子供がするイメージでないんだろう?


なんで?と思うけども
なぜだかそのようなイメージが結構当たり前である気もして。

絵本だったり、テレビだったり、家族やまわりの人だったり、
何かしらどこかで見聞きしたことなどが、
知らない間になんとなく、そういうものだ、と思うようになってるのですよね。


この話に限らず、お願いごとに限らずだけど
「なんとなくそういうものだと思っていること」が当然のように自分もそうだと思ってしまうことって多いのではないかと思う。

自分のお願いごと、ほんとに「自分が求めているお願い」ですか?
誰かのお願いが、自分のお願いになってない?


自分のことがわからなくなってたら、ぜひ自分の確認をしてみてくださいね。


↑このページのトップヘ