カテゴリ: ├ 視点とことば

どんな方向で考えるか?というのは、少しの差のようでいて、大きく違う。


イベントに参加するときの話をしていたのだけど、
相手の状況を考えて、気持ちを想像して
「どういうことを頼んだら、やりやすいだろうか?」というようなことを言っていて。


私も仕事で何か頼んだり交渉したりするときに、
どうしたら受け入れてもらいやすいか?は考えているつもりではいて
どういう風に伝えたら?どんなときに伝えたら?どの程度までなら受け入れてもらえる?を考えて調整していて。
それは似てるのだけど、全然違うなぁ、と。

「どうすれば?」という同じような視点に見えるけども、友人の視点やあり方、いいなぁ、と思う。


友人の場合は、
相手がどう感じるだろうか?の相手視点。
相手ありきで、それに合わせて何をどうお願いしようかなと考えている。

私の場合、
自分の要求をどう受けてもらうか?の自分視点。
自分の要求がまずあって、それを相手の状況や考え方などに合わせて受けてもらえるように調整している。


仕事での話かそうでないかの差もあるかもしれないけど(相手に向けたくなる気持ちの量変わりそう)
でもそれだけではないと思う。

どちらでも考えたら同じになることもあるかと思うけど
それは結果論だし、異なる結論になることもあるよね。
(多分視点変われば違う結論の方が多いはず)


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視点が違うだけのように見えて、実は全然自分のあり方が違ってくる。

自分ありきのときって、どうすれば?の方法論やテクニック的になりやすく
(気持ちに目を向けるのも、方法としてになりがち)
相手中心のときは、純粋に相手の気持ちに寄り添えるのではないかと思う。


自分のやりたいことや希望などに対して合う合わないはあるので
どちらがよいという話でなく目的や場によって使い分けていいとは思うのだけど、
全然違うものだよねと意識した上で、どうしたいか考えて感じていきたいなと思います。









以前研修を受けた会社から研修案内のメールがきていて。

そのメールのタイトルを見て、
なんだかなぁ、という気持ちと
こういう伝え方が効くということかなぁ、と意図はわかるけども複雑な気分になる。


『今どきの新入社員に「社会人の心得」を理解させるには?』
というタイトルで

見た瞬間
「今どき、ってなんだ?」
「心得、ってなによ?」
「理解させる、って??」
と疑問符だらけになったのですね。


私には、そのタイトルの文章は、
今どきの新入社員は、知っているべき心得も知らなくてだめだ、だから、上が(または研修で)教えるべきである
と言っているようにしか見えなくて。

なんでカテゴライズしてまとめて考えようとしてるのだろう?
なんで自分たちの常識が絶対だと思ってるんだろう?
そもそもなんで自分たちの側がえらい(理解させる側)と思ってるのか?


内容見ていないのだけども
ためになるような内容だったとしても
研修受ける側の人たちが、
研修受けさせる側、研修する側、がそんな目で見ていて、そんな意識で受けさせたいと思ってる、と知ったら
受けたくなくなるんではないだろうか…


逆にいえば
このフレーズだと、上司とか人事の方とかの、研修受けさせたい側にはささるのだ、ということなのだろう。
研修受けさせたい側には、
「新入社員は心得がわかってない、わからせなければ」
と思っている人が多そうだ、ということかな、と。

そういう意味では、ターゲットがはっきりしていて、そこに向けての案内なのだろうなぁ。

(ターゲットが、研修受けさせたい側なのであれば、その案内メールが研修受けた側に届くのはどうかな?とは思うのだけども)

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個人的には、
このような意図でこのような発信をしていると、そんな風に上から目線で新入社員を​教育しなければという人が集まるわけで
そんなところに惹かれた人が「受けさせる」場合に
「受けさせられた」人が「受けさせる」人が思うような成長をするのかな?というのが甚だ疑問なのですけども

このくらいリアルに「こんなこと思っていそうな人いるよね!!」と思えるようなターゲットを想定する、
という点は、案内などの文章書くときのヒントになるなぁ、と思ったのでした。

いつももっと「こんな人」をふんわりとイメージしてしまうので、そこは参考にしようかな。


意図せずとも、話すときに自分のイメージでストーリーをつくっている可能性がある。


↑この話のあとにディスカッションしていたときに
自分の身近な事例の話をしていて
「こんな状態だからなかなか取り入れてくれそうになくて!」
というようなことを言っていたら

それはなかなか難しいねー、という声もあった中
「でもそれも、りんどうさんのナラティブかもしれないよね」
と言われて

実際そう言われたしそんな状態だもん!と思いつつも
でも確かにそうでもあるなぁ、と思ったのでした。

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実際にそう言っていた、とか
本人にそういう意図だと聞いた、とかであっても
それを聞いて人に伝えているときには、事実かどうかはわからない。


聞いたまま伝えているつもり、であっても
話し手として伝聞や見たことを話している以上、その人の視点がはいってしまうものですよね。

伝えている中で、
自分の気持ちとか自分の言いたいこととかが話に入ってしまっているかもしれない。
聞いたこと見たことが、細かなずれがあったり記憶からもれているかもしれない。

そもそも以前そう聞いたからって、話している今も同じかはわからない。


わざと話をつくっているのではなくても
よほど意識しない限り(というか、意識しても少なからずは)
自分の視点で自分のストーリーで話してしまうものである、
ということを
忘れないようにしつつ話をしたいと思います。

人は思い込みで話しがち、とわかっていても、実際思い込みで話してしまうのだ、という話。


今日、参加しているコミュニティで、自分が主催したイベントがあったのだけど
最初のチェックインのときになんとなく
「お盆入った日程にしちゃって人数少なくなってすみません」
と話していて。

そんなネガティブな言い方しなくていいのに、と言われて
そこではじめて、
特にネガティブな気持ちで言ったわけでないのに、癖のように口から出ていて
自分の思い込みが大きいなぁ、と気づいたのでした。


自分が、人数多い方が好きとか、人数多いのがよいと思ってる、なら
それは自分の好みで話してたよね、というだけのことなんだけど
(それはそれで、自分の好みだけでなく他の人を見ようよ、と思うけども)

私はむしろ少人数の方が好きで
人数少ない方がじっくり話したり話聞けたり、全員と話せたりするので楽しい。


それなのに
人数少ないと集まった人が物足りないかも、
せっかく話してくれるのに話してくれる人に申し訳ないかも、
聞きたいと言ってたのに来れない人いたから申し訳ないかも、
(自分の都合に合わせたから来れなくなって少なくなったのはよくないかも)
とか、
勝手に想像して、勝手にネガティブな言い方していて。


↑みたいに思ったから、と説明してたら
話す人は、少なくて全然いいよ、だったし
参加した人たちも、少人数で濃い話いいよね、むしろラッキーと思った!とかで
誰もその場で、参加人数多い方がよかった、と思ってる人はいなかった、というオチ。


『人を集めるなら多い方がいいはず』っていう、私の固定観念で動いてた、ってことですね。


もちろん、自分の固定観念でその場に合っている場合もあるのだろうけど
場によって人によって違うわけで。

自分が思ってること、について
自分がほんとにそう思っているのか?というのも
人がそう思うだろう、と思っているのはほんとうにそうなのか?というのも
都度都度自分に問いかけながら考えたり行動したりしないとなぁ、と思ったのでした。

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自分の思ってることはひとりよがりでない?
自分の見えてることは人からどう見えている?
それを常に考えていられるようになれると
ものごとの見え方が変わるしフラットに考えられるようになる。

無意識にそうできるようになりたいですね。

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